2  〜気持ちはいつでもとっても不安定 〜

「たま」は、愛されていた。
メジャーにではなく、彼らをいとしむ彼らのファンに。
さてそれがどういう人々なのかと考えてみるに、これがわからない。私などが推測するのも実際、不遜な話だとも思う。
「たま」は、もともとソロ活動をしていた四人組が「へんてこ歌詞」をキーワードみたいにして寄り集まったバンドらしいので(by石川浩司)、みんな均等に作詞作曲をしてボーカルをとる。その四人の方向性もわりとバラバラだ。
知久寿焼は一貫してうらさびしい子どもの目に映る景色を描き、柳原幼一郎はややラリラリな目に映る天体や人々をおふざけみたいに嘯き、石川浩司はもう明るく気が狂っていて、滝本晃司は壊れた日常と取り残された自分(達)、みたいなものをうたっている。
全員が全員、歌詞の意味がわからない。どうすりゃいいのってくらいわからない。

・ぼくたち栄養がたりないのです 半分消えかかった体で ななめけんすいしているよ 
パピルスの謎が解けたのさ 夜の緞帳が落ちてくる
・おなかパンパン トモダチイナイ 一人のパーティ背骨が曲がる ウヒョヒョヒョヒョ
・化石の取れそうな場所で 星空がきれいで ぼくはきみの首をそっとしめたくなる 
                      (知久、柳原、石川、滝本の順)


内臓をまき散らせウヒャヒャ!みたいな、ど外道パンクっぽい歌詞よりも、“不安定”という意味において彼らの歌は実に気持ちが悪い。そして、こんな変な歌詞を、それぞれが四様のいい声で歌い上げてしまう。そう、声も。

知久の声は子どものように高く、そしてまた音域が広い。世の中をありがちのひねた目で見るのではなく、すでに老生し概念としての「子ども」となったような彼の唄いようは、音程もすぐれているのにどこかしら危なっかしげで、アブノーマルな色っぽささえ不意に立ち上がる。異端であることを、必要以上に誇示するわけでも自虐するわけでもない。彼の立場は実にニュートラルである。本当の意味で自由であろうとする精神は、知久のような人に宿っているのかもしれない。

柳原。彼の声は伸びやかで明るい。「たま」を地下から地上と活性化させたのは彼の存在によるものも大きいのではないかと私は思うが、ささやくような柳原の声はたのしく、せつなく、耳に優しい。ライブ等においてはもっぱら歌詞をアドリブで変えたりしていたらしいが、それをしてもきちんとメロディに乗れる軽やかさと柔軟さを持っている。
(ついでに言えば、彼の一番の魅力はそのカッコつけてるのにそれがいまいちストレートに決まらないヘンテコさにある。実に可愛らしい、のである。)

石川。ツルツルツルツル!とか、笑っちゃうほど巧い合いの手などをいれるのでごまかされそうになるけれど、彼も実にいい声をしている。合いの手で見せる朗らかな大声、アンサンブルで陽気にも男前にもいぶし銀にも変調する声音には唸るしかない。彼の存在、思想は「たま」に重要なバックボーンとしてしっかりと根ざしている。即興のようでいて、彼のパフォーマンスは計算しつくされている(のかもしれない)。異端を体現する姿、そして驚くばかりの寛容さ。愛しく、カッコよく、すごい男だ。

そして、滝本晃司。なんでこのひと「たま」にいるのかしら?と最初は思ったほどの、ムーディでまじめっぽくてかつアダルティーな、声も顔もハンサムな男だ。朴訥で、低くて、甘い声音。実にセクシー。だからこそほか三人に比べて埋没しそうで、逆に目だったりもする。世界にぼんやり取り残された自分の、孤独とも言えない空虚な感覚を静かにささやくその声は、聞く人を彼の世界にいつのまにか引きずり込ませる魅力がある。寡黙というのは、一転、魔力だ。

まあそんなわけで、四様の声と歌詞。そして、のっぴきならない個々の演奏力。
これが喧嘩せずアンサンブルを作り出せていたのだから、バンドの演奏の一瞬一瞬をいとおしく思うファンがたくさんいたって、不思議はなかったんだろうなと思うのだ。

つづく〜