3 〜遠い昔のぼくらは子どもたち〜

「たま」は、ライブでビートルズの「GIRL」をカバーしたことがある。
カバーといっても、四人がそれぞれ自分のパートの部分に作詞(訳詞、ではない)して歌ったものだ。四様の個性を比べて見て取れる、面白い歌詞である。

柳原
「しだれ柳の葉っぱの向こうで あの娘が手を振った
 どうしてこんなぼくだけ残して おさらばしちゃうのさ」
知久
「ぼくがいっちゃやぁだよって言っても きみはいっちゃいますよって言うから
 いっちゃやああだよって言う代わりに いってらっしゃいって言うのさ」
石川
「追いかけたけれど 足が絡まっちゃって アレレレアリャリャ
 坂をゴロゴロ知らない町へ どこだ ここは どこだ」
滝本
「派手なファンファーレと一緒に割れた くす玉の中から
 羽根を付けた変な格好のきみが ぼくの前に降り立つ」


弱々しい気障っぽさ、子どもっぽさ、不器用さ、非日常。
息の合った演奏とコーラス・ハーモニーの美しさは、その個性をふわりと内包して「たま」という作品に仕上げる。誰か一人がメインでボーカルや作詞作曲をするバンドなどでは見られないだろう現象が、「たま」にはあった。

言葉を意味としてではなく風景として音にのせ、豊かな声で歌い遊ぶこどもたち。
音に楽しいと書いて、音楽。笑顔のほころぶような場所から奏でられた音楽。私はその現象を、十五年近くも前の、彼らの姿にみるのである。
遠い昔のぼくらはこどもたち――見たことのないはずの、懐かしくも恐ろしい夕景。星を夢に見る秋の夜。遊びの輪の中で、ふとぽつんと皆が遠ざかって見える、さいはてのような孤独。異端への親近。
うれしい。さみしい。かなしい。くるしい。いびつで未熟なこころに起こる、綯い交ぜの感情の嵐。
彼らの歌は決して、誰かにやさしくあろうとして作られた歌ではないだろう。でも、それを受け取る私にとっては、彼らの歌はとてもやさしい。ヘンテコな四人の男たちは、なんだかみんなとても可愛らしく、かなり気色悪くて、めちゃくちゃにカッコよい。
愛しき四つの白昼夢。愛しきいびつな夢の球体。


「たま」というグループがいた。
したいことしかしない。「大人の話をしたらどう?」と言われても、やりたい音楽しかやらなかった/できなかったひとたちの、グループ。
「たま」は、もういない。彼らはひとりひとりになって、今もそれぞれの描く「音楽」の世界に遊んでいる。