竹中労のこと。

まこと浅学にして昭和の無頼派と呼ばれたこのルポライター氏の著書を、「たまの本」をやっとこ手に取るまで未読だったので、その後で 完本 美空ひばり (ちくま文庫)決定版ルポライター事始 (ちくま文庫) なんかを読んだわけです。芸能ルポですね。

竹中労のいちばんの魅力は、徹底的に取材対象に感情移入してものを言うことにある。「たまの本」の挿話にしかり、「完本・美空ひばり」にしかり。美空ひばりの有名な「塩酸事件」のあたりは、彼女の口述という形態で記されていて、これなんか実に見事なんである。

私は、こう思います。あの塩酸は私にではなく、ゆがんだマスコミの鏡の中の、“人気者”という怪物に浴びせかけられたのに違いないと。もしその娘さんが、潮来の水の上で泣いていた加藤和枝の、本当の美空ひばりの涙を見ていたら、決してあんなことはしなかっただろうと。

竹中労はともすれば、その人以上にその人を描き込む。そうしていながら決して自らの出自を消すことのない語りぐちは、「よくぞ言ってくれた、その通り!」と共感する者がいると同時に、没入ぶりが過剰に見えたり、大に小に違和を覚えさせたりもするんだろう。いくらなんでもそりゃ買いかぶりすぎだ、とか、ちょっと出来すぎ・美化しすぎでないの、とか思うのは、そのとき竹中の目にうつる彼ら彼女らが恍惚なまでに美しかったからなのだ。読んでいて好悪は激しく波打つものの、ルポとしては、通り一遍のプロフィールをなぞりかえすような無味無臭なインタビューよりも実際、いちばん真実に近いんじゃなかろうか。 
恐らくわざわざそんな文体で書くことで、この頃の週刊誌やテレビで偉そうにしてる「ルポライター様」にはそうそう見ることのできない、かたりべとして取材対象へ持つ責任感・気概を彼は厳然と宣言する。彼は当時の芸能界を席巻する*1芸能プロダクションやスター制度のヤクザぶりを暴きたてた。一切のしがらみをなくして「俺は○○が好きだ!××が嫌いだ!文句があるか!」と言えることのあまりの強さよ。
彼は、すべての読者は野次馬であると定義する。浮薄な読者の感受性になんの期待もしていないから、モチベーションをもっぱらに取材対象に拠する竹中の書く文章は孤高で、感情的で、独りよがりなまでに麗しく、そしてびっくりするほど読みやすい。私がいままで独占インタビューだとか週刊誌の芸能記事だとかを二束三文だと思っていたのは、竹中のような逞しい無頼による筆を見たことがなかったからだ。読んだ端から忘れるような記事、構成に収まること・無難であることが一番の記事、それらにかけているものは何よりもルポライトする者の情熱だ。書き手のモチベーションの薄い文章ほど、読んでつまらんものはないのです。

おそらく竹中の著書の中でも、一番対象年齢が若いであろう 「たま」の本 読者に向けて、六十の若さにして死の床にあった彼は言う。

……この本は、ぼく自身「たま」をなぜ好きなのかという、ファンレターなのである。
だから、きみたち少年少女は、変なおじさんの寝言と考えてよい。だが本はとって置いて、思い出したら読み返してほしいのである。「たま」は、資本とマスコミとの誤解につぶされ、一過性タレントの運命をたどるかもしれない。肝心なのは一九九〇年現在、「たま」が存在したという事実なのである。おじさんは、そのことを記録した。

それから、十八年である。かくもながき、か、かくもみじかき、かは知らない。
十八年後のいま、「たま」は存在するのである。もう「たま」というそのものの実像は散開したが、それでも「たま」は存在する。
もしかしたら瘧のような一時的な執着だとしても、その当時の彼らをまったく知らない私にそれは存在する。
こういう在り方を、彼は歓迎してくれるんだろうか。
してくれると、うれしい。

*1:現在はもう席巻どころの話じゃない