「室温〜夜の音楽〜」ケラリーノ・サンドロヴィッチ

映像を見る手段がないので脚本を読んだ。「いわしのこもりうた」「夜のおんがく」収録の8cmCDつき。個人的に、「室温〜夜の音楽」のサントラは他収録の曲が多く「おるがん」の合唱アレンジなどもいまひとつ突き抜けてないので、「夜のおんがく」の音源がほしいだけならもしかしてこの一冊ですんだんじゃねえか?まあいいや。「間宮くん」は好きだし。
閑話休題。私はケラの芝居を見たことがないので、脚本を読んで芝居の雰囲気を立像するというのは絶望的に不可能だ。あくまで脚本と音楽について。いやはや、絶望的なこころみ。

あらすじ
田舎でふたり暮らしている心霊研究家海老沢と娘キオリ。十二年前陰惨な殺され方をしたキオリの双子の妹サオリの命日に、それぞれ偶然に必然に、近所の警官下平、海老沢の熱心なファン赤井、急病のタクシー運転手木村、そして出所してきた加害者のひとり間宮が訪ねてくる。

こういう人間のリアルな陰が陰をよぶシチュエーションが嫌いなのではないのだけれど、目から鱗な収束とか派手なカタルシスの愉悦もなく、次第にイライラとみんながみんな不機嫌になって終わりという展開というのは好きじゃない。まあ野田秀樹が好きな人間の言いそうなことです。
意外なほど重要な立場だった「たま」の面々。ケラもあとがきで書いているように「たま」が(音楽的にも与えられた役的にも)いなかったらこの芝居はこのような形では成立していないだろう。「たま」演じる死者三人は、どんどんきな臭く苛々してくる劇空間において、「楽団」という位置を保つことによって非常にニュートラルに舞台上に存在でき、利害や感情とはもはや切り離された透明なまなざしで、舞台に揺れ動く多くの人間のいらだちや衝突を眺めていることができる。
ことに重要なのが知久寿焼演じる「死んだ少年」の描かれ方である。「少年」はまあ本当に悲惨な死に方をしているのだが、自分でそのことを語る流れは秀逸だ。「やっと見つけてもらえたから僕は本当にうれしかったのに、…」陶酔のない稚気。そして少年は、自分を殺した人間がその状況を語るかたわらにそっとあらわれる。何も言わず、ただそのさまを見ているだけだ。憎悪や呪詛というものを排除したうえでのただ透明な恐怖、こういうお手本みたいなインパクトこそ演劇を見る際の楽しみだ。羨ましい。
透明はその正体を覗き込んでも透けるだけ、――言い換えれば「少年」は劇中に役を与えられた観客の視点と見ることもできる。笑顔で石を食べる姿も、異常なのに違和感なく想像できて面白い。石川浩司演じる死んだ老人が、「石食っちゃだめだ!」と追いかけるところもポカンと平穏でよい。
謎のロシア人ヴァーニャ(滝本晃司)のエピソードには必要性がないが、この芝居が「ホラーコメディ」として成るためには要るのかもしれぬ。これは舞台を見なければ判断はできない。
さて、劇中に効果的に用いられている「夜のおんがく」はともかくとして、「さよならおひさま」やラストの「おるがん」、ほとんどがもともとたまのオリジナルの音曲である。劇音楽というのはどうしてもその芝居の「イロ」――解釈を曲にまぶしてしまうものなので、以前より彼らの音楽を聴き知っていた人々には特にいろいろと堅苦しさや違和感をもたらすのではなかろうか。ことに、文脈と歌詞をぴたりと同調させるこの芝居の展開だと、劇の流れにおいても過剰になりかねないのでは。
あと、この芝居全体のシィンと硬い雰囲気とたまのちゃかぽこしたサウンドのあいだにはちょっと齟齬がありそう。「ロシヤのパン」挿入にしかり。
てゆーか、ラストに「おるがん」全演奏は長くね?

脚本だけ読んだ、明後日で無意味な感想です。
室温―夜の音楽